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香港について その4

 鄧小平は偉大な政治家であった。周恩来と共に毛沢東を支えてきたが、毛沢東による集団農場の政策は悲惨な結末を迎えた。多くの農民は、政府が掲げる計画を達成するためにしのぎを削り、作ってもいないものを作っていると報告し、隣の村がこれだけ作ったといえば、それ以上の数字を提出した。結果として計画経済は机上の上ではとてもうまく行き、余った作物はソ連に輸出された。その一方で飲まず食わずの農民が続出し、2千万人を超える餓死者が出たと言う。

 共産主義は、大地主から小作人を解放する過程では立派にその役割を果たしたが、いざその後の集団農業となると、数量主義に陥り、品質の改良は行われず、頭数合わせが競争的に行われた。こうした共産主義の非効率性はソビエト連邦の崩壊により歴史的に証明されている。

 パリでの留学経験のある鄧小平はこうした社会主義の欠点を見抜いていた。というより、貧困にあえぐ人々を何とか西欧社会なみに豊かにしたいという理想を持った。黒猫でも白猫でも良いから、ねずみを採った猫は良い猫だとわかりやすい比喩で人々が金儲けに走ることを容認した。香港の隣の深センを初めとして各地に経済特区を作り、外国企業を誘致し、安い労働力を提供して国民に企業経営を学ばせた。

 『改革開放』を旗印にかかげ、経済発展の手本として日本を選び、新日鉄や小松製作所を手本とした。それに対し新日鉄の稲山会長や小松製作所の河合会長が協力し、経済顧問として大来三郎を迎えた。小松は中国国営企業に対して無償でTQC活動を教え、それまで連綿と計画されたものを計画された数量だけ作り大半が不良品だった国営エンジン工場を改良し、売り上げも利益も倍増させた。このTQC活動を全国の国営企業が倣った。戦争をして国土を蹂躙した相手国を経済発展のパートナーとして選んだ慧眼や、国民のためなら、真摯に教えを乞う態度は鄧小平ならではのことであった。

 さて、99年の租借を終えてサッチャー英首相が香港を1997年に中国に返還することを合意すると、香港の地位をそのまま保つために一国二制度という制度を作り、社会主義の中国国内と、自由主義を謳歌していた香港をそのままの地位で残そうとした。筆者が駐在していた英国統治下の香港には、規制はほとんどなく、何をしても自由で、自己責任で何でもできる場所であった。遅れた経済を近代化しようとしていた鄧小平は、香港の役割を十分認識していたと思われる。もし鄧小平が今でも生きていたなら、決して香港に現在のような騒動は起きていなかったであろう。自由滑脱な香港を社会主義で圧制しようという発想は鄧小平にはなかったのではないだろうか。

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